記念講演会レポート

ミヒャエル・エンデ没後5周年特別講演

2000年6月4日(日)14:00〜16:00/黒姫童話館「童話の森ホール」にて

 

行ってきました

エンデ研究家として、またエンデのご友人として交流のあった早稲田大学教授・子安美知子さんと、同大学助手でエンデ研究家の堀内美江さんによる講演会が開かれました。お二人ともお忙しいスケジュールの合間をぬって掛けつけて下さり、ユーモラスでとても興味深いお話しを披露して下さいました。

黒姫童話館羽生田館長挨拶

「子安先生無くして、この黒姫の地に2,000点余りに及ぶエンデの資料は無かった」という羽生田館長の言葉が顕すように、お二人のドイツ文学に対するご熱心な研究の成果が、黒姫を世界隋一のエンデワールドにしたと言っても過言ではないでしょう。実際、エンデの故郷ドイツを遥かに上回る数の資料が、黒姫童話館に納められています。

堀内美江さん「エンデの贈り物」

エンデと私のエピソード

今から5年前、亡くなる2週間前シュトゥットガルトの病院へ見舞ったのが、エンデとの最期の対面でした。初めてお会いしたのは10年前、子安先生に連れられエンデの自宅を訪問した時。その頃はドイツ語が殆ど解からず、お話ししたことよりエンデの自宅に飾られてあった物のことやご自慢のワインをご馳走になったことの方が鮮明に覚えています。

童話館にある資料を整理する

エンデの没後も毎年毎年彼の資料が黒姫に贈られています。そして展示室では、その全てが本物を展示されているという驚くべき事実があります。本物と触れ合うこと・・・それは一見非合理的なことかも知れません。収蔵庫に保管せず展示するとなれば当然傷むわけですが、エンデが生涯ポリシーとしていた「本物を見る」という価値観こそ、本物を展示している理由なのです。彼が書いた手紙、ファンから寄せられた手紙、直筆の原稿・・・それら本物を見ることで何かを感じ取って欲しいと思っています。

役者志望から台本作家へ

第2次世界大戦後生活にゆとりの無かったエンデは、演劇学校に入り奨学金を得ました。最初に与えられた役回りは「ラテン的情熱的恋愛家」という訳の解からないもので、あまり才能が無かった彼は次第に演ずることより演劇を作ることに興味を覚え始めました。学校を卒業後書き下ろしたカバレ(ショーを観せるレストラン)の台本「シラーとのインタビュー」の原稿は彼自身の手によって黒姫に寄贈されましたが、その原稿には「私の最初の寄席芝居」というメモ書きが入れられています。わざわざ自身の手によって書かれたそのメモが、そこに彼の創作活動の原点がここにあるということを物語っているような気がします。

読者の想像を妨げない

彼の代表作「果てしない物語」の初版本には、自身の手による挿し絵が描かれています。しかしそこには、登場人物が誰一人として描かれていないのです。「コレアンダー氏の書店」は赤い紙に、「化け物たちの絵」は青い紙に、あくまでも人物を描かず最小限の情報を読者に与える目的で描かれました。あとは読者の想像に任せる・・・それがエンデの読者に対する思い遣りだったのではないでしょうか。

幼少期に受けた隣のオジサンの影響

隣に住んでいたオジサン・・・ファンティは画家兼作家で、日々エンデに絵を描きお話しを聴かせてやりました。そのお話しには、熱心に耳を傾けるミヒャエル少年、そして語っているファンティ自身も登場する創作童話でした。ミヒャエル少年はそのお話しを聴くにつれ、色んな想像をどんどん広げて行きました。「果てしない物語」で主人公の少年が本を読むうちにそのお話しの中に入り込んでしまうというアイデアは、そこから来ているのでしょう。エンデの自宅には、走り書きのようなファンティーのスケッチが飾られていたのですが、そこには「イッヒ・ウント・ドゥ」(君と私)と書かれています。

童話館にある身の回りの物

童話館にはそうしたスケッチや原稿ばかりでなく、エンデが愛用した様々な物が贈られています。ランドセル・ギター・結婚式で使用した羽織袴・亀・パイプ・フランケンワインの空き瓶・石や化石のコレクション・・・・・。一見ガラクタにしか見えないそれらの物には、エンデを研究する上で欠かせないものばかりです。たとえばワインの空き瓶にはよく見ると「ミヒャエル・エンデ様用」というラベルが貼ってあり、ワイン好きの彼が自分のためにオリジナルワインを注文していたということがわかります。(白より赤ワインを好んだそうです。)また様々な石のコレクションからは、生物の進化論では説明がつかない創造主の「遊び心」にエンデが興味を持っていたということに触れることが出来ます。

エンデの遺言

彼がやり残したこと・・・それは、エンデ自身の資料をより多くの人に見てもらうことでした。教育現場からのファンレターには、子供たちがエンデの童話に共感し自分を主人公にしたお話しを創作したものもあります。今後彼の遺言を尊重し、この童話館を飛び出して、世界中にエンデの偉業を伝えて行けたら、と願っています。

子安美知子「ミヒャエル・エンデの人と作品」

エンデと父

ミヒャエル少年にとって、シュールレアレズムの画家であった父エトゥガーは世界を覗く窓でありました。暗いアトリエに何時間も篭って作品と向かい合うことで、走馬灯のようにいろんなシーンが浮かんでは消える、その一瞬を作品として仕上げていった父の思考が、エンデにとってとても大きな位置を占めていました。父の作品を観ると、それがまるでエンデの書いた物語の1シーンのように見えてきます。父は製作中はその作品に没頭するのですが、出来上がった後はまるで興味を持たないという性格でした。これもまたエンデと共通する部分で、彼もまた自分の過去の作品についてはあまり興味を持たず、発表した年代すら覚えていなかったのです。常に前向きに生きていた彼らしい話です。

友人の影響を受けて始めた詩作

エンデ少年が初めて書いた詩集には、「誰も読むな」と書かれています。そのことを私が指摘した時、エンデは「ああ、よっぽど読んで欲しかったんだなあ。」と笑いました。少年時代、彼は父エトゥガー・そして叔父ヘルムントの思想に影響され、哲学者シュタイナーの理論に傾倒します。自分がどこから来てどこへ行くのか・・・輪廻転生の思想が身について行きました。

苦悩の時代

戦後左翼の大御所であたブレヒトの影響を受け、エンデはその作風を模倣するものの、納得の行く作品が出来ませんでした。それは読者自身の感情移入を拒絶したもので、エンデが幼少期に出会ったファンティ氏の創作童話とは全く違うスタイルでした。そして自分のスタイルの確立へ、彼は模倣をやめ読者が主人公になれる作品を目指して書いた最初の作品が「ジムボタン」という機関車のお話しで、後に「モモ」へと繋がる流れが出来上がって行きました。

亀はエンデが父の作品の中で最も好きなものでした。何の役にも立たず、邪魔にもならない存在、そして昔のことを何でも知っているかのようなその不思議な顔。父への尊敬の念とオーバーラップさせ、かつ愛着を覚えていった亀は、エンデの作品中で大きな役目を果たすようになります。

21世紀へ残すもの

第3次世界大戦はすでに始まっている・・・・・それは時代対時代、世代対世代という戦争。環境破壊、物質主義、それは現代から未来への一方的な攻撃のみで、決して反撃はやって来ない。私たちは一刻も早くそれに気付かなければならないのです。エンデがやろうとしていた大きなことを、一人でも多くの人が受け継いで行きたいと考えます。

 

いかがでしたか?当日のお話しを出来るだけ再現してみたつもりですが、細かいニュアンスまでお伝え出来ない点はどうぞご容赦下さい。私自身まだエンデについて詳しくないので、講師の方々の本当に伝えたかったことが正確に受け取れていないかもしれません。拙いレポートですが、感想をお聞かせ下されば幸いです。これからも、エンデさんと皆さんをつなぐお手伝いをして行ければと思っています。

 

ミヒャエル・エンデ年譜・主な作品

ミヒャエル・エンデ特別展

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