ミヒャエル・エンデ 年譜 |
エンデの生い立ちから黒姫童話館に資料を寄贈した経緯など、
簡単なプロフィールを作りました。
なお、さらに詳しい年譜は「ミヒャエル・エンデ館」のページにあります。
1929年 | 0歳 | 11月12日ドイツ南部のバイエルン州で、芸術家夫婦の長男として ミヒャエル・アンドレアス・ヘムルート・エンデ誕生。 父エドガーは腕のある画家だったものの、ナチスの政策に反抗した ため芸術活動を制限される。 |
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1936年 | 7歳 | ミュンヘン市内の小学校に入学。成績は今ひとつ。2年生のときに友 人が病死、この友人はのちに「はてしない物語」の主人公・バスチア ンとして登場する。またこの頃から読書と小動物の飼育に熱中する。 |
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1939年 | 10歳 | 第2次世界大戦始まる。父は徴兵され、母とも別れ故郷への学童疎開 中、友人に刺激を受け詩作を始める。終戦間際エンデも召集令状を 受け取るが逃亡、そのまま終戦を迎える。 |
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1947年 | 18歳 | 演劇に傾倒しはじめたエンデは、仲間達とともに「屋根裏劇場」をつく る。高校を中退した後、演劇学校に奨学生として合格し俳優を目指す 傍ら戯曲を書き始める。 |
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1958年 | 29歳 | 友人からの依頼で絵本「ジムボタンの機関車大冒険」を共同制作する も出版出来ず。3年後同作品がドイツ児童文学賞を受賞したのをきっ かけに執筆業に専念し始める。この間日本文学に魅せられ「牡丹灯篭 」をベースにした作品を発表。 |
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1964年 | 35歳 | 12年の交際期間を経て、8歳年上のインゲボルク・ホフマンと結婚。 | ||
1966年 | 37歳 | 西ドイツ放送局の依頼により「モモ」を書くが、不採用となる。 また翌年初演された戯曲「遺産相続ゲーム」も酷評を浴びる。 |
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1971年 | 42歳 | イタリア・ジェンツァーノに移住。翌年「モモ」を完成するが、困難の末 何とか出版にこぎつける。挿絵も自筆のペン画で我慢する。 3年後同作品がドイツ青少年文学賞を受賞。 |
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1975年 | 46歳 | オペラ「モモと時間どろぼう」完成。意欲的に製作を続ける。 | ||
1977年 | 48歳 | 初来日。日本文学や能・歌舞伎などを鑑賞。この時案内を務めた佐藤 真理子さんと後に再婚する。 |
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1979年 | 50歳 | 「はてしない物語」出版。翌年同作品と「モモ」がベストセラーとなるも、 エンデはその多忙を極め、執筆活動に専念出来なくなる。 |
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1984年 | 55歳 | 「はてしない物語」映画化(タイトルは「ネバーエンディングストーリー」)。 原作とかけ離れた製作に憤り告訴するも敗訴。 翌年妻が病死、ドイツ・ミュンヘンに戻る。 |
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1986年 | 57歳 | 「モモ」映画化。再来日を果たす。 | ||
1989年 | 60歳 | 「エンデ父子展」のため来日。佐藤真理子さんと再婚。佐藤さんの故郷 黒姫に童話館建設の話が持ち上がり、全面的に協力。 |
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1992年 | 63歳 | 「モモ」100万部記念のため来日中、前年完成した「黒姫童話館」を訪 問。これが最後の来日となる。翌年胃潰瘍を患い入院。 |
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1995年 | 65歳 | 8月28日永眠。ミュンヘン市内「森の墓地」に埋葬される。11月12日 ゲルトナー劇場で追悼式。 |
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年譜作成にあたり、黒姫童話館・桜井博一様にご協力頂きました。 |
ミヒャエル・エンデ 主な作品 |
エンデ作品の中から、もっとも親しまれている作品のみをピックアップしました。
すべて現在翻訳出版されています。
モモ(1976年) |
がんばりやのかめトランキラ(1979年) |
はてしない物語(1982年) |
ジム・ボタンの機関車大旅行~ジム・ボタンの冒険1~(1986年) |
ジム・ボタンと13人の海賊~ジム・ボタンの冒険2~(1986年) |
リルム ラルム バルム おかしなおかしな物語(1986年) |
ゴッゴローリ伝説(1986年) |
エンデのいたずらっ子の本(1987年) |
サーカス物語(1984年) |
鏡のなかの鏡~迷宮~(1990年) |
遺産相続ゲーム~五幕の悲喜劇~(1992年) |
テディーベアとどうぶつたち(1994年) |
魔法の学校~エンデのメルヒェン集~(1996年) |